2008年12月13日土曜日

大地を守る会との出会い

1972年(昭和47年)に下獄した藤本は、懲役として定役という何か定められたことをしなければならず、農業を希望するも、「構内清掃衛生夫土工」として刑期をおくることになる。その中で感じたのは「食への思いの強さ」である。刑務所内でする話は、食に関する話題が多かった。量の多少でけんかになるほどだったという。人間はどうしたって食べてゆかねば生きてゆけないのだ。この最も根本的で基本的なことが、根本的で基本的であるがゆえに忘れられている。「その大事なもん作るのは農業やないか。これに取り付いている限りは間違いないし、誰も反論せんわなぁ」というのが藤本の述懐である。
学生運動を経て、藤本には今度の運動には、「誰にも反対できないところに立脚する」ことが必要だと考えていた。それが、安心、安全で、環境を保全し、生命教育の現場となる農業ということだったのである。 
 1974年9月に黒羽刑務所を出所して藤本は、一年ほど陶磁器などの移動販売をスーパーで行う。
 「希望宣言」によれば、藤本は、1976年(昭和51年)暮れに「大地を守る市民の会」と出会い、その後77年に、市民だけではなく、消費者と生産農家が一緒になって、同じ土俵の上で、日本の食と農とを考えるような動きができれば、と考えて「大地を守る市民の会」から「市民」をとり、「大地を守る会」を発足させ、初代会長に就任したとしている。
 この点について、大地を守る会の会長である藤田和芳氏の著書「ダイコン一本からの革命 環境NGOが歩んだ30年」(工作舎 2005年)では、沿革として75年8月「大地を守る市民の会」設立、76年1月新宿区西大久保に事務所設置、76年3月に「大地を守る会」に名称変更、会長に藤本敏夫氏を選出としている。最初の出会いも、本書によれば75年の暮れに藤本が藤田氏を訪れ、ともに活動するようになったとしている。さらに、「農的幸福論 藤本敏夫からの遺言」(加藤登紀子編 家の光協会 2002年)の藤本敏夫年表でも藤田氏の著書と同様、76年3月に大地を守る会会長に就任とあるので、これは藤本の記憶違いとしてよいだろう。
 大地を守る会と出会い、藤本は食と農に関する現場を得た。ここで、刑務所で描いたことを実践して行くのである。

2008年11月18日火曜日

研究を始めるにあたって

 藤本敏夫が2002年にこの世を去って6年。2008年は食の安全が問われ、金融危機によってそれぞれの生き方を考えさせられる年となった。
10月19日に藤本敏夫の次女で、歌手のYaeが実行委員長を務めた「土と平和の祭典」(日比谷公園)には3万5千人が集まり、種まき大作戦として活動してきた2年目を祝う収穫祭が盛大に行われた。
 今、鴨川自然王国でスタッフとして活動する私にとって、藤本敏夫はこの場所を作ってくれた大きな存在である。2004年ころから著作などを通して、折々に藤本敏夫の思考に触れてきたのだが、ここに至って一つのまとまった記録として残しておきたいという思いが湧き上がってきた。
 一人の人間が生きてきたすべてを網羅して書くことは困難であるが、今ならまだ時代の証言者もたくさん生存しているだろうし、明らかになっていない藤本敏夫の側面を発見できることもあるだろうと思う。藤本敏夫の生きてきた人生を追い、戦前−戦後−平成への流れを見通してみたい。
 この研究は、藤本敏夫の生涯にわたるものになる予定であるが、まずは鴨川に移住して活動を始めたところから記述を始めようと思う。