2009年1月10日土曜日

大地を守る会での日々

 大地を守る会会長に就任した藤本は、「化学農薬、化学肥料の弊害をより広く啓蒙することと有機農業実践農家の農産物を販売し有機農業を社会化する」ための活動に奔走し始めた。
 活動の転機となったのは、1977年(昭和52年)4月に、池袋の西武百貨店で行われた「無農薬農産物フェア」の開催であった。雑誌「話の特集」の編集長であった矢崎泰久氏や、作家の中山千夏、永六輔、野坂昭如の3氏など、それに加えて妻の加藤登紀子も日替わりで売り場に立って声を上げた。このイベントが功を奏し、池袋を起点とした西武池袋沿線の住民たちが既存のステーション(大地の農産物を配るための消費者メンバーの集まりをこう呼ぶ)に入ったり、新しいステーションが生まれたのだった。
 徐々に大地を守る会の運動は軌道に乗り始めたが、大地を守る会は任意団体であり、実情は「藤本敏夫の個人商店」(ダイコン一本からの革命 藤田和芳著)のような形であった。大型の灯油ストーブを購入する際、法人名でローンを組めず、藤本名義でローンを組み、個人財産として購入するほどであった。運動として自立するためには、法人格を取得するしかない。数々の議論を経て、株式会社を設立することとしたのだった。藤本の著書によれば、「私は現実と直面し、対話せざるを得なかった。従って、「大地を守る会」は「株式会社大地」を生み出さざるを得なかった」(絆)と書かれてあるが、前掲の藤田著によれば、株式会社が株主に奉仕する組織であるならば、大地の掲げる目標に賛同する消費者、生産者に株主になってもらい、その主張を会社の活動に活かすような会社を作ろうではないかとかなり積極的な理由であったことがうかがえる。
 こうして、1977年(昭和52年)11月、大地を守る会自体は運動部門を担当する任意団体として残し、流通部門を独立させて「株式会社大地」を設立された。しかし、予想されたとおり、「株式会社大地」の設立は批判を集中的に浴びたのであった。「絆」によると、『「日本有機農業研究会」初代会長の一楽照雄氏は農産物を商品として販売することに強い懸念を抱き、大地の動きを市場経済への拝跪として批判した。 日本有機農業研究会には60年代後半の政治活動で行動を共にした者も多数参加していたし、共同体的志向を自らの内に強く自覚していた私にとって一楽の批判は辛かった。』と記してある。『辛かった』と感情を吐露しているのが、株式会社としてスタートしようと決めた覚悟の重みを示している。
 批判を浴びながらも、株式会社大地は、学校給食へ食材を提供し、卸専門の会社「大地物産」の設立を行うなど、順調に利益をあげていくのであった。
 ところが、1983年(昭和58年)の初頭、藤本は突如、大地を守る会の会長を辞任すると告げたのである。